富山市・砺波市・滑川市で建てる、自然素材の木の家なら、空ホームデザイン。

生い立ちと想い

空ホームの生い立ちとこれから

空ホームデザインへの道のりを赤裸々に語ります。

– 代表・渡邊の生い立ちと想い –

scene1. 少年時代

1965年
8月13日(金)富山県富山市八尾町に生まれる。
5歳頃まで地元のローカル線に蒸気機関車が運行されており、よく祖父と駅まで見に行った記憶がある。生まれた時から足の骨が曲がる病気で、成長に合わせ中学3年までは骨を切ってボルトで固定すと言った手術を毎年繰り返していた。
小中の夏休み若しくは冬休みは何時も手術して入院していた。普段はずっと矯正靴を履いていた。
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scene2. 学生時代

1981年
県立八尾高等学校普通科入学
※実は商船や水産高校など海系に行ってみたかった。(山の子が海への憧れか)
部活では応援部の副団長を務める。
部の顧問が禅寺の方丈で自分の家も禅宗だったので禅の思想に興味を抱く。
1984年
県立八尾高等学校普通科卒業
1984年
国立富山職業訓練短期大学校室内造形科入学(第一希望は生産機械科だったが合格できず、適当に選んだ第二希望の室内造形科に入る)。自分の子供時代の手術費や入院費が嵩んだ事も有り家にお金が無かったので国の奨学金制度やキャバレーのボーイをしながら学費や食費の遣り繰りをしていた。
授業内容は浅く広く建築一般と工芸(家具を作ったりとか)を。ドラフターを使えず、同級生と課題の図面をタバコ一箱で図面一枚の契約をしていた。
キャバレーでのバイトの実入りが良くなると最初に単車の免許を取ってFX400→GPZ400→RZ250と乗り継ぎ鈴鹿4耐に出る夢を見ていた。(出れませんでしたが)
何となくトンネル、橋、ビルなどを造る現場監督になりたいなーと思い始める。
1986年
国立富山職業訓練短期大学校室内造形科卒業
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scene3. ゼネコン時代

1986年
地元の中堅ゼネコンに入社。工事部に配属となる。(2年ほど前に設立した住宅部門がとても忙しくなってき、雑用の人手が欲しかったらしく短大卒として初採用される)
忙しいから明日から来い(面接の翌日、入社式の10日程前)と言われ、その初日に通勤ラッシュなるものを知らず30分遅刻、ボロクソに叱られ明日から一番に出社して全員の机を拭いてお茶を沸かしとけと命ぜられ、会社の鍵を渡される。(退社するまでの6年半、毎日一番に出社していました)
住宅部門の工事部と言っても上司の半分は元ゼネコンの肩で風を切っていた現場監督の方々、完全な縦社会でした。(黒いもんでも白と言われたら白みたいな)
最初の1年位は、上司のゴルフのキャディーバック持ち。
会社管理の駐車場で違法駐車の見張り番。
鉄砲打ちの職人がキジ・カモ・シカなどを仕留める度に現場小屋での鍋パーティー用の買い出し。
社長の運転手が辞めたので一年近く社長の運転手。
夜は毎日のように上司に飲み屋街に付き合わされる。
月末には何件もの飲み屋の付けを払いに行かされる。
今度は直属の上司が飲酒事故で60日免停になったので上司の運転手。
一日中アンモニア臭いコピー室での青焼き。
当時は誰も仕事を教えてくれず自分で見て聞いて盗んで覚えろみたいな感じ。
1987年
会社に初めてCADソフトが導入されることになり一番若いからと言う事で図面のCAD入力と確認申請業務を一人でやる事になる。(年間80件以上)。毎晩、夜中の3時過ぎまで仕事、それでも朝7時には出社して全員の机を拭きお茶を沸かしていました。
1988年
バブル突入。先輩監督達が業者やメーカーの接待で海外・国内旅行に行きまくり、早く自分も一人前になってそんな身分になりたいと思っていた。
自社のプレカット工場を造る事になり、これまた一番若い自分が担当にされ、1年前に提携した地方の工務店とプレカット機械メーカーからノウハウを学んでこいと半年間、送り込まれる(それも出発の3日前に辞令)
しかし、送り込まれた工務店も人手不足でノウハウは程々で加工材料の配送部門にまわされ、3ヶ月ほどはトラック野郎状態でした。
富山に戻ってからは設立したプレカット工場の横架材加工部門・加圧式防腐防蟻処理部門の責任者になる。
1989年
二級建築士の受験資格(実務経験3年)が出来、過去問一冊をひたすら何回も解いて一発合格しました。(この時点でもT定規、平行定規を使えなかったので製図はフリーハンドで描きました)
因みにこの会社では受験資格が出来て3年以内に資格を取れなければクビと言われており、事実辞めさせられた人もいました。(自主的に)
1990年
しかし、ゼネコンの現場監督の道は遠のき工場で毎日同じ作業を繰り返すのに飽きてき、退社を申し出る(このころ仲の良い先輩が鳶の仕事で稼いでいたので自分も辞めて足場組立屋を始めようと思っていた)。すると専務に行った事も無い寿司屋に連れて行かれ腹一杯食べさして貰い「もう少し頑張れ」と言われ「はい」と答える。
もう少し頑張っていると、本社に呼び戻され管理課(アフターメンテナンス、リフォーム)に配属される。本社に戻れたものの建設の方ではなくホームの方だし、オマケに新築担当じゃなかったので手放しで嬉しくはなかった。
只、この時の直属の上司(大手ゼネコンでソマリアのプラント建設の指揮を取ってた人)に仕事のPDCA、施工図の描き方、鉄骨造、RC造、和の納まり等々叩き込まれました。
1991年
一条工務店の物件を専門で現場管理していた先輩が退社する事になり一条工務店の仕事の現場管理を管理課が引き継ぐ事になり、ここで初めて新築の現場を数件任される。わからないなりにも一生懸命やっていたら、お客様から褒められたり、心からの感謝の言葉を頂いたりして、住宅建築も良いな~と思い始める。(ゼネコンの監督だとそんな経験は出来なかったのではと思う)只、設計の仕事にはそれほど興味が無く、このころ建築家と言っても「清家清」「黒川紀章」「桑田政次(社内の設計課長)」しか知らなかった。
1992年
しかし余りにも給料が安く、結婚相手の彼女よりも給料が低い。(社長の方針で20代の社員の給料が極端に低く抑えられていた)丁度その頃、仲が良かった営業マンの転職先(この年に住宅販売代理店を辞め新規に起こした会社「アルスホーム㈱」)が設計士を募集していると誘いが有り、設計を勉強しながらでも良い上に、恥ずかしくない報酬も提示して貰えた上、当時の直属の上司も「その方が良い」と後押ししてくれた。転職を決意!(ゼネコン時代の経験からCAD入力と確認申請業務には自信が有った)
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scene4. ハウスメーカー時代

1993年
1某ハウスメーカー設計部に入社 富山支店の設計を任される。
営業が描いてきたラフ図面を構造、法規のチェックをし、建築確認を通るようにする仕事。見積書を作成し、お客様に見積提示と仕様説明をする仕事。着工前にお客様との色打合せ等の仕事。工事用に施工図を書く仕事(施工図を描ける現場監督が居なかった為)と、営業プラン後の仕事が多すぎて自分が最初からプランする機会になかなか恵まれなかったが、社長や設計部の同僚の影響で「吉田五十八」「安藤忠雄」「宮脇壇」を知ることとなる。

1994年
一級建築士の受験資格が出来たので挑戦するも不合格。(この後、特訓して平行定規を使えるようになった)
1995年
一級建築士に2回目で合格。社長からは当社は住宅建築しかしないから一級の勉強などしないで仕事を優先させろと叱られ続けました。(何となく、この会社には長く居ないだろうから資格だけは取らねばと思っていました)
1996年
しかし、どうも社風に馴染めず退社を申し出る。(以前居た男臭いゼネコン系の前職と違い、スパッとしない、なよなよっとした営業設計系の社風)。ところが、丁度その時、工事部の若い監督が2人同時に辞める事になり工事部長から工事に来て現場を見てくれと懇願され新しい人が見つかるまでの条件付きで工事部に配属される。
バブルが崩壊した事に気付いていない富山県、ピーク時は新入社員2人を部下にして年間55件竣工させていた。
とにかく忙しくて、新しい人が入っても辞めさせてくれないし自分も転職を考える余裕が無いくらいの忙しさでした。
ストレス発散に大型自動二輪の免許を取得しハーレのスポーツスター1200Rを購入する。
1999年
その後不景気になり赤字決算が続くと社内に降格や首切りムードが漂い始め密告やチクリ、尾行などが流行だす。
2001年
もう限界、昇級したばかりでかつ、もうすぐ夏のボーナスだと言うのに辞表を提出し、今度は聞く耳持たぬと言った態度だったので受理される。
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scene5. ワタナベホームデザインを立ち上げる

2001年
しかし、カッコ付けて辞めたは良いが、次の当ても無く途方に暮れる。又他に勤めようか?
何処も似たり寄ったりか?
商売替えしようかな?

などと悩んでいる間に貯蓄は底を着き、思い切って増改築・修繕等の仕事をメインとした「ワタナベホームデザイン」を個人で始めるが、無計画・無準備だったので、当然のごとく全く仕事が取れず、1年半ほど雇われ現場監督をして食い繋いでいた。

2002年
父親を突然事故で亡くし、人生何時何が起きるかわからない、1回位旗揚げて勝負してみよう思い、雇われ現場監督を辞め、自作のチラシを手配りなどして増改築・修繕等の営業を始める。次第に、取引業者からの紹介や、先輩・後輩・親戚などから、増改築や修繕の依頼がポツポツ来るようになる。
覚悟を決め、大好きだった車もバイクも売り払いエヴリイのバンを中古で購入し仕事に励む。
ちょっとした解体工事、大工工事、基礎工事、左官工事、塗装工事、内装工事などは自分で遣ってました。(お陰で営業活動が疎かになり基礎屋や配管屋のアルバイトに行くこともしばしば)

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scene6. はじめての新築依頼

2006年
それでも何とか続けていると後輩から新築の依頼が有り、銀行ローンの手続きを皮切りに初めて設計、施工の新築仕事をさせてもらう事が出来ました。(竣工後には完成見学会もさせて頂きました)この時に、たとえ後輩とはいえ、大した実績も無い自分に何千万もする家造りを任せてくれた事に凄く感謝しました。(奥様方の親御さんからは何処の馬の骨とも判らん奴に頼んで大丈夫かととても心配されていたようです)

初めての設計施工物件と言う事もあって自分もかなり力を入れて遣った仕事だったので、お引渡しした帰りには本当に泣きそうになりました。(娘を嫁に出したみたいな)

同時にこの時初めて、仕事を通じて感動するといった経験が出来ました。
そして、個人の住宅専門の会社を興して改めて良かったと感じました。
この後も、沢山ではありませんが余り途切れることなく仕事の依頼が有りました。

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scene7. 仕事の低迷、そして伊礼氏との出会い

2009年
この年は新築2件に増改築2件が重なり、何となく軌道に乗ってきたと勘違いし、当時大工工事を頼んでいた若木氏と設計系の工務店として「空ホームデザイン㈱」を設立。デザイン系のハウスメーカーと同等のお洒落感と仕様でハウスメーカーよりお安くを売りに、お客様の要望を出来るだけ取り入れ、少しだけお洒落感のある坪50万円前後の家造りをしていた。
2011年
しかい、知人・友人・親戚・紹介等のネタも尽き始め、仕事が途切れ出す。弱い紹介の場合、知名度の無さや会社の規模の小ささから信頼されず契約に至らない。
土俵に上がる為の無料プラン&見積りの仕事ばかり多くなった。

負のスパイラルに陥った感じがしはじめる。
何かもっと特徴を出してアピールしなければいけないと思いつつも方向性が見出せない。
好きなのは(数寄屋建築)(倉庫)(RC打放し)(米軍ハウス)(南の島)(城)(神社仏閣)(お茶屋街)(レトロ)(アンティーク)
そんな時、地元の建築士会の記念講演に来ていた建築家「伊礼智」を知る。
講演を拝聴後WEBで検索すると設計教室の生徒を募集しているとの記事を発見
何か方向性のきっかけが掴めればと思い早速申込!
若い設計士が対象だったのですが、気持は若いからという事で入校許可して頂くことに。
しかし、設計教室に通ったからといって仕事が突然じゃんじゃん取れるはずも無く、周りからは勉強しに東京くんだりまで行っとらんと仕事取ってこいと言われ、借金も溜まりだし廃業も考え出す。

2012年
もう一踏ん張りと思い、設計教室で学んだ事を少しでも形にしようと思い更に借金して事務所をリフォーム。これまた、事務所をリフォームしたからと言って直に仕事が取れるわけも無く
仕事(金)の切れ目は縁の切れ目みたいな感じで一緒に会社を立ち上げた大工とは別れる事になる。

2013年
遂に自分一人になり、廃業も頭を過る事が有りました。
しかし、子供の頃から負けず嫌いで「もう、無理」とは言えない性分でして・・・
松下幸之助氏の言葉「成功とは成功するまでやり続けることで、失敗とは成功するまでやり続けないことです」を励みにして、まだまだ諦めない決意をする。
すると、勤めていた頃の同僚(営業マン)から親戚の新築を紹介して頂き、お仕事させて頂く事に。
この工事が完成に近づく頃には、自分と同じ町内の後輩から家の建替えの相談を頂きました。
この年から以前お店を造らせて頂いたヘアーサロンのオーナー姉妹と一緒に定期的に婚活パーティーを企画し、めでたくゴールインした暁には、着付けとセットはそのヘアーサロンで!、新居はCOOで!!をスローガンに地道な種蒔きをしております(笑)
2014年
昨年相談してくれていた後輩の自宅の建替え工事を年明けに契約させて頂き雪解けから着工させて頂きました。
そして、又しても工事が完成に近づいた頃に同じ町内の別の後輩から家の建替えの依頼が有り、この年の10月から着工させて頂くことに。
2015年
昨年着工させて頂いた現場を6月にお引渡しして暫く空いが有ったのですが、またしても町内の後輩からリノベーション工事の依頼が有り、年明けから着工する事になりました。
2016年
リノベーション工事が完成する頃、又しても同じ町内の後輩から家の相談が有り、現在リノベーション工事第二弾として施工中です。

 

※この間、上記の新築工事も含め中規模、小規模のリフォーム工事、車庫新築工事、介護リフォーム工事、修繕工事等全ての仕事が町内の人、友人、友人からの紹介、協力業者からの紹介です。(勤め人の大工さんが、自宅の増改築を勤め先ではなく、自分に依頼して頂けたケースも2件ありました)こうやって必要とされ、自分の仕事を信頼し任せてくれる人達がいると言う事は本当にありがたい事です。決して目を見張るような斬新な設計は出来ませんが、住み続ければ住み続ける程愛着が沸く滋味な設計をし、着工したら重箱の隅まで目を光らせ、施工精度の高い家造りを今後も心掛けてゆきたいと思います。この歳になると会社を右肩上がりに成長させてガンガン利益を上げてと言うよりも、「心地良い」「楽しい」「凛とする」そんな家(空間)を一件でも多く手掛ける事が出来、そこに住んでくれる家族に喜んでいただけて、幸せになって頂く事が自分にとっての一番の喜びだと感じている今日この頃です。

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「小さな家。ネット(現・住宅デザイン学校)」設計教室最終回の集合写真

another scene. もうひとつの経歴

子供のころ

◎家のTVに緞帳がが掛かっていた。
◎レコードで「ザ.ピーナッツ」「ちあきなおみ」「山本リンダ」「いしだあゆみ」などの歌を聴いていた。
◎年に一回、富山大空襲で焼け残った「大和デパート」に行ってレストランで鉄火巻きを食べるのが楽しみだった。・大和デパートの前には何時も軍歌を流しながら軍服を着た特攻帰り風の人が物乞いをしていた。
◎運動会や遠足のお昼におにぎりの包み紙が大和デパートのバラの包み紙だと「お前、大和行って来たがか」と言われ、大和に行くのは地元(田舎)のステータスだった。
◎西武デパートが出来、外が見えるエレベーターに乗る時はエレベーターガールにお金を払えと先輩に教えられ、500円渡して笑われた。
◎親父は勤めていた富山駅前の日本通運で三輪トラックを運転していた。
◎「大江戸捜査網」「子連れ狼」「女鼠小僧」「木枯らしもん次郎」など時代劇物をよく観ていた。
◎物心付いた時から阪神タイガースのファン。
◎「タイガーマスク」「デビルマン」「明日のジョー」「忍者サスケ」「赤影」「里見八犬伝」「侍ジャイアンツ」辺りも好きで観ていたかな~
◎漫画は「サーキットの狼」「朝太郎伝」や、本宮ひろし系が好きでした。
◎足の病気で虐められないために、地元のガキ大将になりました。
◎「侍ジャイアンツ」に影響され小学高学年の時にヤングタイガースを立ち上げました。
◎地元の春季祭礼「曳山祭り」が大好き。
◎川遊びが好きで、禁止されていた「チョン掛け」や「ヤス」で川に潜りアユなどを捕っていた。

青年のころ

◎三島由紀夫の事件に衝撃を受ける。
◎愛国、憂国思想に魅かれ右傾化する。
◎「吉田松陰」「高杉晋作」などに強く思想の影響を受ける。
◎「日露戦争」「大東亜戦争」「新渡戸稲造の武士道」「葉隠」などに興味が出る。
◎一方で正月の深夜映画の影響で「スティーブマックイーン」「ポールニューマン」「ジェームスディーン」「高倉健」「菅原文太」に憧れる。
◎「ヘミングウェイ」「チェ・ゲバラ」「カストロ」などキューバ系が好きになる。

壮年期

◎同級生を集め草ソフトボールチームを作り監督を務める。
◎町内の若い衆を集め草ソフトボールチームを作り監督を務める。
◎地元春季祭礼「曳山祭り」の花形「警護頭」の役をさせて頂く。
◎町内壮年団の会長と曳山総代をさせて頂く。
◎業者所有のヨットでのクルーズにハマる。
◎スノーボードにハマる。
◎自分のアイデンティティーに関心を持ち調べると源氏「渡辺綱」の遠い遠い末裔じゃないかと思い込む。
◎LAからラスベガスまでR66を車で旅行する。

最近

◎基本、毎朝4時半に起き、珈琲を飲みながらタバコを一本吹かし、目を覚まさせる。
5時頃から筋トレを少しして、その後スロージョギングを30分、シャワーして朝食をとって7時過ぎに家を出る規則正しい毎日です。
◎町内の役職が休み無く宛がわれる。(曳山保存会会計)(公民館会計)(五月会会長)(町づくり委員)(公民館建設委員)等々
◎リターンライダーになり休みの日は、同級生とツーリングを楽しむ。
◎陽気でゆる~い感じが好きだったり、遣る時は遣るも好き(厳格に、大胆に、過激に)